昭和40年06月22日 朝の御理解



 天地の恩恵に浴する。世界中の氏子におかげがやってあると。これは天地の恩恵に浴しておるということ。天地のお恵みをそれぞれが頂いておるということ。天地の恩恵は信心がなくても受けておるのだけれども、天地の保護を受ける天地の御守護を受けると。天地が守って下さると。ここんところが信心のあるものと無いものの違いの様ですね。なら信心があるからみんなその保護を受けておるかというと、そうではない。
 やはりそこんところの、神様が御守護くださる、お守り下さる。そのお守下さっておるなかからぬけようとする。逃れようとする。そして、天地の御守護を受けることができずに起きてくるのが災難、難儀である。難儀じゃないな、やっぱ災難じゃ。ここんところをひとつみなさんが、ようわからせてもらい、ようひとつね、椛目に御神縁を頂くならこういうところをね、皆さん体得なさらなければ、椛目に、を、御神縁を頂いておる値打ちはないというくらい。ただお願いをしておかげを頂くだけである。
 椛目でこういうところを、本当のことを教えて頂くからありがたいのである、ね。世界中の氏子におかげがやってある、ね。たしかにそうなんだ。天地のお恵み、天地の御恩恵というものに浴しなかったら、人間は、人間だけの事じゃないけれども、まず人間は生きられない、ねえ。ですから、信心をさせて頂くようになると、そこの御恩恵のところに対して、信心いわゆる神恩報謝の生活さしてもらう。神恩報謝ということはすでにもう、ありがたいという心なの。いうなら和らぐ喜ぶ心なの、ね。神恩報謝の心がわいてくるから、その心の、におかげがあると仰るのである、ね。
 同時に今日、私はその、そういう誰でもが信心があってものうても、天地の御恩恵に浴しておるという事。おかげを受けておるという事。と同時にです、天地の守護を受けなければならん。特別なお守りを受けなければならん。特別なお守りを受けておるのだけれども、信心しておっても、それを、御守護を御守護と悟らない。そこから抜け出ろうとする。もったいない話なんだね。
 今朝からどうも足が、私また悪いですもん。やっとおりてきた。御祈念終わったらもうこりゃ立てんなと、こう分かるくらいに足が悪い。神様そのことを、御礼申させていただきよったらね、もう神様がね、その事を、お礼を申し上げることを非常に喜んでくださる。私は別にその、これ神様の御都合だと思っておるから、御守護を受けておるとは思ってなかった、このことはね。ところが実は、神様がこうして、御守護を下さっておるんだという事なんです。
 『御心眼にね、かたつむりが角をこう出しとっとこを頂くです。したら何か外敵がちょっと来たらぱっとこの殻の中にちぢこまってしまうところを頂いたんです。』もう私のこれなんかはもう絶対それなんですがね。私はどういう外敵が来て私をどうしよう、もう私は家の中にちぢこまってしまうですから、もうどうにも手の打ちようがない。ようく考えてみなさい私のことを。
 もう私に外敵がちょっと(微笑)、私がもう体が動きませんけと言うてちゃんと家んなかにこもってしまうから、どうにもしようがないことが皆さん分かるでしょうが、ね。もうそれはそれはもうなんともかんとも言えんのですわ。それは、んなら、例えば、私以外のものがもしこうだったとするかねえ。はぁまた、または来るもんが来たなっというてから、まあそれこそ大変なことだろうとこう、ねえ。
 体半身は動かなくなるなん、んだものねえ。ところが神様はそうしてねえ、御守護を下さってある。そこで皆さん、私は体がこうやって不自由だけれども、なら皆さんが金銭なら金銭で、不自由する時のことを、いっちょ思うてみなきゃいけません。手も足も出らんちゅう様な時があるでしょうが、ねえ。どうして家はこんなにいつまででん、貧乏せんならんじゃろうかと。
 どうしてこげな窮屈な思いせんならんじゃろうかというて、そこから抜け出ろう抜け出ろうとしよった、うんじゃ御守護を受けられんじゃない。同時にその御守護を御守護と悟らしてもらう時に、有難しという事になる。その有難しという心に恵まれるもの、御恩恵に愈々欲せるものじゃなからなければ、本当じゃない。金が足らんちいやもうすぐその、借りに行く、ねえ。物が無かっちいやすぐもらいに行く、ね。
 そこんところがです、物が無いなら無いなり、例えば手足が動かんなら動かん中にです、神様がそういう御守護をくださっておるのであるから、御礼を申しあげにゃいけんという事、ね。深い神様の御神意のあってのこと。天地の親神様が、そこで私どもが思うんですけれどもね、いかに我無力であるという、いわゆる弱き者、我、ということに自覚しなければならんかという事がわかるでしょう。
 お参りができんならいっちょお参りやってみりゃよかたい、ね。金がないけん金借り行った。なら貸してはもろうたばってん、さあそれで楽になるかて、いっちょん楽にならんでしょうが。さあ一ヵ月後にはまた苦しまんならんでしょうが。なんせ支払わんなんもんじゃけん。ねえ。だからその中にです、その中に、その窮屈な中に、御守護を知らないけません、ねえ。そこで私が今日言おうとしておるところ、ね。
 御守護をご守護と悟らんで、この窮屈な中から早く逃れよう逃れようとして、不自然な事までしてそこから逃れようとするところに、災難がまっとるのじゃ。こういう例がたくさんあるでしょうが。今日は福岡行きしようと思いよりましたら、急に頭がいとうなりましたから御無礼しましたら、途中でまたその車が事故におうとったちいう。そげん思いして頭痛か(かみだし?)いきよるけんやりそこなうて、ね。
 これなんかは、ゆうその御守護を受けておるんだけども、御守護を受けておる事を悟らずにです、頭痛か、どうして頭痛かじゃろうかぐらいのこって出てから、いわゆる災難が外にまっとる事も知らずに出て行くわけ。もう金光様の信心のね、このへんのところがもう、それこそ分からせて頂いてはじめて、信心のより、自由豊かなていうかね、もう神様の思いの深さというかね、もうどうにもこうにもでけん有難さの中に、いわば、殻んなかに閉じこもっても、ありがとうしてこたえんのじゃ。
 その有難うしてこたえんのが、一切が恵まれるところの、おかげの受け物になるのじゃ、ね。だからそれを、私どものお粗末御無礼の為に、不自由になるような場合もある。手足が動かんようになることもある。そこをそこで、詫びるところを、お詫びさしていただかなきゃいけん。もちろんね。夕べあたりの、御理解を頂いておったら、あの私がいつも言うでしょう。
 成り行きを大事に、いわゆる成り行きとの対決だといったような言葉をもって言うですけどもね、あれは対決なんていう言葉はだいたいは妥当じゃないんですね。あれはもう血だ肉だと仰るあれが。あれがいうならば親が私どもに与えてくれる、お乳のようなものだと仰る、ね。自然に例えばねえ、それが苦い事であっても、難儀な事であっても、はがゆい事であっても、情けないことであっても、まあお乳ではないならそれは、ある場合にはせんぶりの場合、ある場合にはにんにくのようなものでしょ。
 お前どんの胃が悪いから、お前の心の胃が細いから、苦いせんぶりなっとのませちから、胃ば丈夫にしてやろう、なんでんおいしゅう頂けるようにしてやろうという神の御神意なんです。それを、こういう苦い思いをしたくないというて他所さえやるから、いつまでたっても胃が治らんようなもんじゃ、ね。親子、兄弟と、血のつながりという事を言うでしょう。あれは天地の親神様と私どもの一つの繋がりをね、繋がりを、繋がりとしてあらわしてくださるのじゃ。
 そうゆう、自分から親でもなからなきゃ子でもないというように、つっきってしまうようなことはないだろうかとことなんですよ。だからいつまでたっても、親神様の特別の御恩恵に浴することができんのじゃ。信心は拝む事だけだと思うたら大間違い、ねえ。もうその事全体が信心なのだ。私どもの周辺に起きてくるその事一切がです。その中におかげを頂いていこうとするのが信心なのだ。
 教祖の神様が教えて下さる様に『生きておる間は修行中じゃ』とね。ここんところがよう分からにゃいかんとですばい『生きておる間は修行中じゃ』と『学者が眼鏡をかけて年をとっても本を読む様なものであろうぞい』とも仰る。信心のない者はどういう事か信心っちいうて、お道の信心以外のものをどういうか『生きておる間は修行中じゃ』いわゆるこの世は苦の世だ苦の世界だと言うてしまうでしょうがね。信心させて頂く者はそこんところが『生きておる間は修行中じゃ』というその修行という事を私共が、本当に有難い修行をさせて下さるという事をです、思わせてもわにゃいかんのですね。
 いよいよ、いわば私に何が出来るか。そこを教祖は、『障子一重がままならぬ人の身』だ、とこう仰るのだけれど、自分で何かできるごと思うとう。何ができる。私に、「おいちょっと立ってから、向うまで走って来い」っち言ったっちゃできないですもん。今まで走りよったつは、おかげば頂いておったちゅうことになろうが。そうじゃろうが。私は頭が良かけんでちいう。
 神様がちょっと神経の方の狂う方ばちょっとこげんやっておしなさると、さあ考えようと思うて考えられんのだから。思おうと思うたってそう思う( ? )だけで思えんのだから。私が働いて私が食べよるごと言うけれど、さあ胃が悪くなってごらん、それこそ目の前に持ってきただけで吐き気がくるのだから。そこんところをいっちょ皆さんが、ほんと分からないかんとよ信心は。
 「ちょっと大坪お前、立ってから、向うまでお前が走りきるなら走ってみれ」っち言うやつは私は這うこつでもやっとかっとでしょうが。そげん神様御無理言いなさったっちゃ、例えば家までは建てられません。さあそんなら、日頃おかげを受けておる事を一つ分かれよと、神様が言うて下さるような気がする。お前が走りよるとじゃあない。お前が急ぎよるとじゃあない。
 忙しいと頂きよるのであり、走らして頂きよるのでありしてみるとです、もうここんところがほんとに、『障子一重がままならぬ人の身』である、人間の無力、我無力であるという事を悟らしてもろうて、ね。目が見えとる事に対して、手が動いておる事に対して、ご飯が美味しう頂けておる事に対して、とてもとてもお礼ば申し上げなきゃおられんのであり、そのお礼ば申し上げる神恩報謝の心、その心がおかげの受け物になるのだから、ね。そういうなら私に力が無い。我無力であるという事、ね。
 そこに弱気者の上により屑の子ほど可愛いという働きが特別に始るのじゃ。何にも神様出来ません。いわゆる屑の子の自覚なのである。何が出来るかお前達が。それを私がしますち。はぁ私がこげんさせて頂こうと思いますと言うて、その口ではさせて頂こうと思いますと言いよるけれども、させて頂きよるのじゃない証拠には、有難いのが、させて頂きよるとなら有難いがでらにゃならんばってん、でらんめぇが。
 させて頂きよるとならば、ねえ、例えばお供えをさせていただいて有難いということにならにゃいくまいが。お参りしよるとならば、それでおかげでお参りさせて頂きよるじゃろうが。お参りさしていただきよる事が、頂きよる事が、有難いという実感として、どれだけ皆さんの心の中にあるかということじゃ。今日は久しぶりに参ったげな。自分で参ったごたる顔をしよる、ね。
 もう根本的にですね、ここん所をお互いが分からせて頂いてです、ね。本当に『障子一重がままならぬ人の身』であるんだなあという事を分からせて頂いて、ね、愈々弱いというのも一つ、力の無い私であることが分かる時に、その力の無いものの上に、特別の神様のお恵みを頂くことができる。天地の御恩恵に浴しておる。それは信心があっても無くても、信心が薄うても篤うても、御恩恵に浴しておるのである、ね。
 けれども、天地の特別の守護を受けるというのは、また違う。皆は守護を受けきらずに、かえって受けておる守護からふりきって外にでて災難にあっておるといったような事実がたくさんあるということ。世の中の難儀な氏子の上に。そこんところを皆さんが体験して、分からしてもろうて、このありがたいお道にご縁を頂いて、そこんところが分からせて頂く。いよいよ自分の思いをこう悟らせてもらう人の上にです、神様は真の幸せをお許したもうということが言える。
 動けん中に窮屈な中に、金が足りんなら足りん、足りんという不自由な中に、私の手足が動かんなら手足の動かんという不自由の中に、特別の神様の御守護のあっておる事を分からしてもらう時に、その事に対してお礼を申し上げなければおられないて。成程考えてみりゃそうじゃなぁ。私がこうやって出よっとちょっと外敵が来たら、私がしゃもう私が家ん中に篭ってしまうでしょう。もう是なんかもそのどうにもこうにもでけんほどの、働きですよ神様の、ね。そうしとらなければいけん事があるのじゃ、ね。
 私はある時になんでもないと思ったら、朝から下痢をする。もうそれがもうひどいん。だから私は二階にまあ、下で休んどるあの部屋に休んどった、ね。どうしてじゃろうかと思うけど、ああ神様の御守護を受けとったわけ。それから何時間もそのその事が解った。ああ成程寝とかなければならない事があった。ある人が尋ねて来た。そしてもし私が寝とらなかったらもういうならばです、私の運命が狂う様な事が起っとっと。
 これ十年ばかり前の話なん、ねえ、してしてみると、熱発しておることも下痢しておる事もです、神様の御守護を、特別の御守護を受けておるからそうなんだということ。ああいうならひっこんどかなきゃ危ないぞと言うて下さるわけなんです。そうして下痢はしよるばってんか頭は痛かばってっちいうて、してでてくるは、いわばほんなことに、に、あうことができないのじゃ、ね。
 だからこのへんのところ、どうぞひとつ、あの、皆さんが体験をもってですね、分からせて頂かれたらです、もうほんとに自分の上に降ることも、自分の上に照ることも、窮屈な思いをすることも、皆御守護の中にあっておることで、いうならそこを、親先生のお祈りの中にあることだからということになるわけなんです、ね。そこに、親先生有り難うございます。天地の親神様ありがとうございます。
 金光様有難う御座いますというて、いわば喜びの生活が出来る。その喜びの生活その喜びに、またおかげがいやがうえに頂けていくっちいうのが、お道の信心のおかげの現れ方なんです。どうぞお願い致します。どうぞおかげ奉りますばっかり願い奉ってから、おかげ頂くととは、わけがちがうことが分かるでしょうが、ね。もう椛目で御信心を頂くならね、ここば体得してなかったら駄目って。
 こんならもうそれこそ、いつ何時の時代になっても是なら間違いがないという事。普遍の物であるという事。天地の有る限りねえ。ここんところをひとつ体得さしてもらう。ここんところを、子供にでも孫にでもおそえとくなら、ばたばたする事はいらんという事になるでしょうが、ねえ。そこんところがそん、体得なさらなければいけんと思うね。
   おかげを頂かなければなりません。